北原光騎

1987年6月、23歳で全日本プロレスに入団。1988年4月8日、百田光雄戦でデビューを飾る。その後、海外修行に出発、アメリカでは佐々木健介とのサムライウォーリアーズで活躍。帰国後、SWS→天龍源一郎が旗揚げしたWARに入団、天龍の右腕的存在として活躍する。33歳で自ら総合格闘技道場キャプチャー・インターナショナルを旗揚げする(翌年、同団体を離脱)。40歳でNPO法人日本ブルー・ブレイザーを設立し、理事長に就任。2004年4月より川崎市麻生区を拠点に、自らの門下生たちとともに防犯パトロールを行っている。

エルボースマッシュ

鍵型に曲げた腕の先端部もしくは少し前側の腕の部分を、斜め下方から上方へ向けてかち上げるように振り上げ、相手に叩きつける技。主に頭部(特に顎など)を狙って繰り出されるためアッパー・エルボーとも呼ばれるが、ジャンボ鶴田は腹部に繰り出す形も使用していた。ビル・ロビンソン、ワイルド・アンガス、ピート・ロバーツ、レス・ソントン、トニー・セント・クレアー、ウィリアム・リーガルなど、英国・欧州出身の選手が多用したことからヨーロピアン・アッパー・カットとも呼ばれる。ナイジェル・マッギネスやダグ・ウイリアムスもこの名称で使用し、コーナー上から立っている相手に対して飛んでいって繰り出すダイビング式も使用する。また、ドリー・ファンク・ジュニアはロビンソンとの幾度との対戦からこの技を自分のものとし、ドリーの門下生にも使用者が多い。

バックドロップの切り替えし

投げられる寸前、相手に足をかけて自由を奪い、そのまま後ろにたたきつける。力道山がルー・テーズのバックドロップへの対処法として相撲の河津掛けを応用して編み出した。また独立した技としても使われ、そのまま自分諸共相手を倒した場合は河津落としと呼ばれる。ジャイアント馬場が得意にした。
ヘッドロックで相手を押しつぶし、相手のクラッチを切る。
投げられた瞬間に、空中で体を捻り覆い被さるように押しつぶす。
投げられた瞬間に後方に一回転してマットに足から着地する。
ロープに近い場合は、トップロープに脚をかけてわざと勢いをつけて相手の後頭部を叩きつけることもある。

ハイジャックバックブリーカー

別名飛行機強奪式背骨折り。カナディアン式のように上方へ担ぎ上げたあと、相手を仰向けにして自らの両腕を相手の上腕あたりを掴んで、さらに自分の両腕を高く上げて静止。その状態で相手の上腕を内方向に締め上げることと重力で背中へダメージを与える。この時に自らの頭を相手の背中に押し当ててさらにダメージを大きくすることもある。また、カナダ式同様に自分の体を上下へ揺らして、その衝撃でよりダメージを増加させる場合も多い。ドン・レオ・ジョナサン、マスクド・スーパースターなどの大型選手が使用した。

日本プロレス時代のアントニオ猪木は、コブラツイストや卍固めを相手にかける前に、この技で背骨へダメージを与えておく事が多かった。

ルスカ

柔道を現役引退した後は、青少年相手の柔道師範などをした後に、プロ格闘家へ転向しアントニオ猪木の新日本プロレスへと参戦した。そして1976年2月6日の蔵前国技館において「格闘技世界一決定戦」と銘打ち、猪木とシングルで対戦。バックドロップ3連発で猪木に敗れている。その後も継続的に新日本プロレスのリングに上がり続けたが、プロレスに対しての適応力が弱く、定着するには至らなかった。その後長いブランクの後に、1994年9月23日の横浜アリーナで猪木と再戦。鍛え上げられた肉体を披露するも、チョークスリーパーで敗戦している。

ネックハンギングツリー

ネックハンギングツリーは、パワーのあるプロレスラーが得意技とする。ビル・ミラー、ドン・レオ・ジョナサン、ゴリラ・モンスーン、ブラックジャック・マリガン、ネイル・グアイなど、超大型の強豪レスラーが、自らの巨体と怪力を誇示する目的でよく使用した。ニコライ・ボルコフは片腕でこの技を決め、怪力ぶりを見せつけた。日本ではアーニー・ラッドの得意技として知られ、新日本プロレス参戦時にはこの技でアントニオ猪木から勝利を奪っている。日本人レスラーでは坂口征二がよく見せた。

背中越しに決めるリバース型(ハングマンズ・ホールド)も存在する。また、WWEのロード・テンサイ(ジャイアント・バーナード、A・トレイン、プリンス・アルバート)は、このネック・ハンギング・ツリーの状態から開脚パワーボムに移行するボルドー・ボムをフィニッシュ技としている。

ジョニー・パワーズ

1960年代末にはオハイオ州クリーブランドを主戦場とするようになり、五大湖地区以外への遠征は少なくなる。北東部の大物プロモーターであったペドロ・マルチネスからの譲渡によりクリーブランドの興行権を取得し、プロモーター業の比重を高めていくと共に、映像制作・販売等の事業も手掛けるようになる。この時期には日本プロレスから遠征してきていた坂口征二とも対戦している。1970年、マルチネスとパワーズはNWAを離脱してNWF(ナショナル・レスリング・フェデレーション)を設立。自らは初代NWF認定世界ヘビー級王者となった(ロサンゼルスにてフレッド・ブラッシーを破り、戴冠したとされる)[

レイキャンディ

1980年3月にはブッチャー軍団の副将となってチャンピオン・カーニバルの第8回大会に再来日。テリー・ファンク、ディック・スレーター、テッド・デビアスのファンク・ファミリーと激闘を繰り広げた。同年8月の来日ではオースチン・アイドルのパートナーを務め、PWF杯争奪タッグトーナメントに出場している。1981年2月には国際プロレスに参戦し、ラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に挑戦。シリーズ中、同年秋に開催予定だった『ルー・テーズ杯争奪リーグ戦』の予選も行われ決勝リーグ進出を決めたが、開催前に国際が崩壊したため出場は幻に終わった。

スーパーマリオマンというリングネームを新日マットで名乗った事もある。

木村政彦とグレイシー

1951年、サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地で柔道指導をし、昇段審査も行った。

同年9月23日、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシー(ヒクソン・グレイシーやホイス・グレイシーの父)に試合を挑まれ、絞め落とされ敗北する。エリオは兄のカーロス・グレイシーが前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。